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伝説と実像 [よもやま話]

藤原実方もそうですけど、伝説の中でどんどん実像とかけ離れた姿に成長していく人って多いですよね。それが伝説ってもんだよと言われると、まあ、そうなんですけど。

京都でいうと、どうでしょう、すぐに思いつくのは牛若丸だったり(源義経といわず牛若丸というのがミソです)、和泉式部だったりでしょうか。和泉式部の話は、だいぶ昔に柳田国男の文章を読んでへぇ~と感心した記憶があるんですけど、昔すぎて、どんな内容だったか忘れてしまいました。また改めて読んでみましょう。
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誠心院の和泉式供養塔(2011年撮影)





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実方伝説について [よもやま話]

まともに調べもしないであれこれ言うのはダメなんですけど、結局のところ、実方伝説で引っかかっているのは「更雀寺」というお寺の名前なのかも知れません。

極楽寺とか念仏寺とかいった具合に仏典がらみの正式名称があって、俗称が「雀寺」というのならまだしも、正式名称からして「更雀寺」というのでは、雀に化けた実方を供養するために建立されたお寺なんですか?と思ってしまいますし、それならそれで扱いが大きすぎるというか何というか、違和感ばかりになってしまうわけです。

もちろん寺名の「更雀」は別の有難い意味がある言葉で、後世の牽強付会で実方伝説に関連づけられたというのもありうるパターンですけど、そのあたりは本当に調べないと何とも言えません。→誰か奇特な方にお任せ致します。


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ただの雀・・・・特に1374






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実方雀 [よもやま話]

一の鳥居、二の鳥居の話のきっかけとなった寺社移転ネタをあれこれやっていた折り、現在は市原に移転している更雀寺はかつて四条大宮にありましたという話を紹介したと思います。その更雀寺は、通称「雀寺」と呼ばれています。これは、平安時代の貴族、藤原実方がとある事情によって奥州に左遷され、任地で亡くなった後、都を偲んで雀となって戻ってきたという伝説があるからです。

 さて、この話、京都に伝わる伝説としてはよく紹介されるのですが、改めて話の出どころを確認してみようと試みると、けっこうやっかいだったりします。「実方が雀になった話」という部分だけを取り上げるなら、江戸時代の妖怪絵師、鳥山石燕も「入内雀」と題して描いているので古くからポピュラーなネタだったことは分かりますが、雀となった実方がやってきた場所が更雀寺だったという点は、かなり危なっかしい気がします。

とりあえず、手許にある資料で調べた範囲ですが、鎌倉時代の説話集「十訓抄」には、実方が雀となって「殿上の小台盤に居て」とあります。これは殿上の間に用意された食器台の上にやってきてということでいいでしょう。つまり実方雀が現れたのは御所は殿上の間ということです。

とりあえず、ここまでは確認できるのですが、ほかの部分は???をつけておきます。出典を書かずにダイジェスト的に紹介されるところによれば、内裏から勧学院(藤原氏の学寮)へ飛んでいったとかの話もあり、その勧学院の跡地に開かれたお寺が実方雀にちなんで更雀寺と名付けられたとのことですが、そうした伝説がいつ頃から語られるようになったのかは、やや腰を据えて調べてみるのも面白そうです。

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勧学院の跡を伝える石碑(千本三条西入るを上がったところの個人宅前)



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一の鳥居・二の鳥居 [よもやま話]

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一の鳥居から覗き込んで遠くに二の鳥居を眺める・・・あまりそういう目線を意識しなかったものだから、どの神社がその条件を満たしているか、よくわかりません。でも確実なところを一つあげるとすれば、私のお膝元、上賀茂神社ですね。あそこは紛うことなく、その条件を満たしています。あと、記憶を辿れば伏見稲荷は参道が一直線に伸びているのでOKでしょう。そのほか、めぼしいところをGOOGLEマップのSVで確認してみましたが、なかなか見当たりません。辛うじて晴明神社ぐらいでしょうか(SVの写真では角度の問題があって望む形にはなっていませんが、そういう目的で訪れるといい感じに撮れそうです)

上賀茂神社・・・◎完璧(上掲写真)
下鴨神社・・・・×
北野天満宮・・・×
平安神宮・・・・×
松尾大社・・・・×
伏見稲荷大社・・◎(→写真参照)
晴明神社・・・・〇(たぶん)
八坂神社・・・・×

これら以外の比較的、小規模なところならいくつか出てくるかも知れませんが、それはまた気づいた折々にでも。



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錦天満宮の場合 [よもやま話]

一の鳥居を残して、二の鳥居との間にマンションを建てたのが梨木神社なんですが、一の鳥居、二の鳥居、それにその間をつなぐ参道も残しながら、それらの周囲に建造物を密集させたケースといえば・・・・これはご存じの方も多いでしょうが、錦天満宮ですね。

鳥居の笠木や貫が両サイドの建物にめり込んでいるとか突き刺さっているとかの形で紹介されることが多いのですが、正しくは「建物が鳥居を包み込んでいる」わけですね、はい。

詳しく調べたわけではないですけど、①新京極が開かれるにあたって参道の一部がお召し上げになる。②鳥居脇にも家屋が建つ。③数度の立て替えを経て鳥居と密着するまで近接してくる。④当初の平屋建てが階上を建て増すにあたって鳥居の一部をくわえ込む(現状)といった感じではないでしょうか。

鳥居が壁に食べられていない時の様子がわかる古写真などが出てきたらスゴイなと思いますけど、ちょっとムリっぽいですね。
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両側が食べられている鳥居の図(2017年)。
ちなみに二の鳥居はよく見えませんが提灯群の背後にあります。




【追記:6/22】
新京極が開かれたのは明治の初期(明治四年か五年)。その段階で錦天満宮の参道周辺がどのような状態だったかはわかりません。現在の場所に一の鳥居があったかどうかも含めて不明です。しかし敷地の構造から推測するに、仮に一の鳥居があったとすれば現在の場所に近いあたりだったことでしょう。現在の一の鳥居が奉納されたのは、柱に刻まれた年次によれば昭和10年のようです。この頃には二階建ての家屋は多くは無かったと思いますし、現在のようなコンクリートの建物でもなかったことでしょう。つまり一の鳥居が奉納された時点では、まだ両サイドはきちんと空中に出ていたはずです。その後(たぶん戦後になってのこと)、改築&コンクリート化するにあたって現在のような姿になったものかと思います。

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梨木神社の場合 [よもやま話]

厳密には移転ネタではないのですけど、神社仏閣の移転が検討されるようになるのは、その前提として社寺経営の問題が立ち現れる場合です。その対策の一つで、街なかの境内を手放して郊外に移るということもあれば、正覚寺のように境内地は維持しつつ本堂の形態を変えるということもあるわけです。

あるいは、下鴨神社や梨木神社のように境内の一部にマンションを建てて、そこからの収入を当てにするというケースもあります。どういった方策を取るかはそれぞれの判断ということになります。ただ(第三者的にとやかく言えることではないのですが)第三者的には境内の雰囲気が変わってしまうところには一抹の寂しさを感じないわけではありません。

たとえば梨木神社の場合、一の鳥居と二の鳥居の間にマンションを建てたのですが、その結果・・・・いかんとも形容しがたい景観になってしまいました。比較的、近似のアングルから撮った写真があったので建設前と建設後を並べてみます。

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上:2017年2月/下:2013年9月



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赤門正覚寺 [よもやま話]

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河原町通蛸薬師西入の風景


神社仏閣の移転ネタで、ぜひチェックを入れておきたいと考えているのが正覚寺。観光目線でいうと耳慣れない名前なのですが、河原町通蛸薬師西入ルにあるお寺です。

神社仏閣が街なかから郊外へ移転する理由はさまざまですが、バブル期などは地上げによって移転を止むなくされたケースもあります。蛸薬師の正覚寺も地上げ攻撃を受けたお寺なんですが、ここは境内に雑居ビルを建ててその上階を本堂とすることで危機を回避しました。

休日には若者たちで賑わう河原町蛸薬師の界隈ですが、一画にある商業ビルに「赤門正覚寺」というプレートが掲げられています。これは正覚寺がその先にあることを言っているのではなく、そのビルが正覚寺であることを告げる「表札」だったりするわけです。




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移転ネタをつらつらと [よもやま話]

千本二条から大原へ移転した出世稲荷、その話にちなんで、神社仏閣の移転ネタを並べてみます。本気で調べると、もっとたくさん出てくると思いますが、すぐに思いつく範囲での列挙です。

山科の本圀寺
黄金に輝く仁王様が印象的だったお寺ですが、近年のレポートによると金箔要素が少なくなっているとか。それは、また改めて実地検分でもしてみようと思いますが、この本圀寺も移転組の一つです。もとは西本願寺の近く、六条堀川にあったとか。それが山科の地に移転したのが1971年(昭和46年)だそうです。六条時代の本圀寺には歴史的にもネタもたくさんあるようですが、山科に移ってからは黄金ネタで注目されるようになりましたとさ?
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本圀寺の仁王像
やはり全身黄金の方がインパクトが強いので2003年撮影の写真より



幡枝の妙満寺
最近はどうか知りませんが、ひと昔は敷地内にある妙満寺会館で金融品(いわゆる質流れ品)の処分市がよく催されていたので、曰く付きの特売セールといえば妙満寺という印象が強かった場所です。その妙満寺も、もとは市中に伽藍を構えていたそうで、旧地は寺町二条。

雀寺こと更雀寺(きょうしゃくじ)
藤原実方伝説で知られる雀寺もかつては市中の寺でした。現在は市原のお寺ですが、1977年に四条大宮から移転してきたそうです。ちなみにこの雀寺ですが、「通称寺」界隈では猫寺と人気を二分する存在だとか?

あと移転ネタで忘れたくないのは正覚寺ですけど、これはまた改めてご紹介します。




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出世稲荷跡地 [よもやま話]

太子道ネタでもう一席、
このコースを歩く際、ぜひチェックをしておきたいのが、千本二条、すなわちコースの出発点に当たるわけですが、そこにあるこの石碑。
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見ての通り、「出世稲荷」というお宮さんの跡地です。跡地という以上、かつてはこの場所に鎮座されていたわけですが、諸々の事情により神社経営を維持するためにはこの地を手放さねばならないとのことで大原の奥へ移転してしまいました。移転が2012年なので、つい最近のことです。バブルの頃なども小規模な神社仏閣の移転が相次いだという話は耳にした覚えがあるのですが、その実際を見聞きしたのはこの出世稲荷が初めてでした。



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太子道の話 [よもやま話]

前回の投稿で紹介した「野戦重砲々弾」の石碑は、以前に紹介していたようですね。当時も詳しいことがわからないので?扱いの話題だったようですけど。

それはさておき、この蚕ノ社を含む「太子道」は、実際に歩いてみるといろいろな発見があって面白い道です。ゴールの「太秦の太子様」こと広隆寺は単独でも見どころ満載のスポットですけど、広隆寺を含めて「道」として眺めつつ、いろいろな史料をつきあわせながら歩くと、かなり面白い体験ができます。

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道中にある回国巡礼者の供養塔・・・
詳細は調べていませんけど、なんとなく闇めいたものを想像してしまいます。





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